水族館物語
1.水族館のスタート
「君は他に何ができる?」とのやや唐突な問いかけに「魚を飼うのが得意です」と小さな子供のような内容の返事。思えばこのやりとりが今の状況の開始点だったような気がする。これは私が教員になって満10年となる昭和63年2月某日の埼玉県立大宮光陵高校の校長室での会話。新任以来10年間お世話になった県立富士見高校ではひたすらバレーボール部の顧問として若さに任せてやっていた。転勤先となった大宮光陵高校は創立まだ3年目で、当時の校長の渡辺圭一先生は埼玉県で初めて普通科に芸術科を併置したその大宮光陵高校を創った方であった。その校長先生との面接でのやりとりが冒頭の会話だったのである。「私のやり方が気に入らなければ来て頂かなくても結構」というような(確か、そう言ったと記憶している)やや?ワンマンなところもある校長先生だった。転勤して私はバレーボール部のかたわら、自然観察クラブというクラブ活動で生徒と一緒に野鳥観察などをしていた。11月になってそれまで4年間続けていたサケの孵化・飼育と荒川への放流をクラブの生徒たちに話したところ、是非やりたいと全員の意見が一致した。そこで直接、校長先生にお願いして横幅90cmのガラス水槽1セットを購入してもらった。その水槽で、荒川にサケを放す会より入手したサケの受精卵500個を孵化させ、飼育した後2月11日に生徒たちと一緒に荒川へ放流した。放流には渡辺校長先生ご夫妻も来てくださった。このサケの飼育と放流のことが当日の毎日新聞の朝刊に結構な紙面をさいて掲載されたのである。思わぬ学校のPRにもなったと思われてか、渡辺校長先生曰く「魚が好きならもっと飼ったらどうだい」この言葉を頂いてそれならばと、殆ど使われていなかった地学室を「大宮光陵水族館」とする構想を練った。描き上がった青写真を渡辺校長先生に見せたところ、当時の前野芳子事務長にも相談して費用的にも何とかなりそうということでOKが出たのである。2年間の準備期間を経て、平成3年4月に90×45×45(cm)のガラス水槽を11本並べた「大宮光陵水族館」がスタートした。飼育した魚は肺魚や数種のシクリッド、それに自然観察クラブの生徒たちからリクエストされたピラニアなどである。生物の授業の生きた教材としてはもちろん、美術科の生徒にとっては生きたモチーフとして、そして何よりも見に来る人にとって心安らぐ空間として親しまれるようになっていった。